2015/12/04
結婚して9カ月が経った頃、塔子のお腹に新しい命が芽生えた。自分のお腹に、赤ちゃんがいる。それは不思議な感覚だった。初めての感覚だった。
子供が出来た事を、塔子はつわりで知った。それは言いようのない不快感だった。朝起きた時から、気分が悪い。日中はもちろん、夜寝ている時も、いつもいつも吐き気がする。そして時には本当に吐いてしまう。検査薬を買って調べてみると、やはり赤ちゃんが出来たようであった。次の寰宇家庭日に病院へ行くと、エコーには2cmほどの小さな影が映った。
病院からの帰り道、塔子は彼に何と言おうか、と思い悩んだ。そして、事実を伝えた後、彼は自分に何と言うのだろうか。彼は子供をそんなに欲しがってはいなかった。いずれは、と思っているようであったが、それは今ではないらしい。なにしろ、彼は友人と二人で会社を辞め、事業を立ち上げたばかりだ。そして、それはまだ軌道に乗ってはいない。無職同然の身なのだ。
しかし、自分は別に何も悪い事をしたわけじゃない。もちろん、お腹の子にもなんら罪はない。むしろ、これは喜ばしい事なのではないか? そう、喜んでいいのだ! 電車に揺られながら、塔子はエコー写真を何度も何度も眺めた。右手は無意識にお腹をさすり続けた。
家に帰ると、彼はすでに帰宅していた。ほとんど仕事のない彼の方が、フルタイムで働く塔子よりも帰宅時間が早い事が多かった。もちろん、彼は何もしない。洗濯物は夜になってもそのまま干されている状態で、炊飯器もバスタブも空っぽの状態だ。カーテンすら、開け閉めをしない。彼はただ寝そべって、テレビを眺めているだけだ。
「ただいま」
「お帰りー」
彼は視線をテレビに向けたまま応えた。塔子はカーテンを閉めながら、いつ話を切り出そうか、と迷った。
「今日の晩ご飯、何?」
「あぁ……晩ご飯。晩御飯ね……。そうだね、どうしようか……」
気が動転していて、スーパーに寄らずに帰って来てしまった事を、塔子は今更ながらに知った。
「あのさ……その前にちょっと話があるんだ」
「何?」
彼はテレビの方を向いたまま、面倒臭そうに言った。
「あのさ……あなた、パパになったんだよ」
「えっ?」
彼は寝転がったままの姿勢で、きょとんとした表情を浮かべた。
「パパになったの! お父さんだよ!」
塔子が笑いながらそう告げると、彼は困ったような顔で、キョロキョロと目を泳がした。
「えっ……それって、子供が出来たって事?」
「そうだよ!」
塔子が声を挙げて笑うと、彼は釣られたのか、口元を歪めた。彼自身は笑っているつもりなのだろうが、それは曖昧に誤魔化しているかのような、半笑いのような表情だった。
「……そうなんだ。……そうなんだ。おめでとう……」
まるで自分は当事者ではないかのような、他人行儀な口調で、彼は何故か祝いの寰宇家庭言葉を述べた。
その翌日、塔子は母に妊娠の報告の電話をした。受話器の向こうで、母は明らかにうろたえていた。
「なにも、初孫じゃあるまいし」
塔子は笑いながら母にそう言った。二年前、すでに弟の子供が生まれている。
「いや……いやね、違うのよ。息子の子供と娘の子供とじゃ、違うじゃない……」
ハァ~~という長い溜め息をつきながら、母はそう呟いた。
「何が違うのよ」
「だって、あなた、仕事はどうするの? それにまさか生みに実家に帰るとか言い出すんじゃないでしょうね」
「……あぁ……大丈夫。仕送りならなんとかするし、別にお母さんの手を煩わせたりしないよ……」
母は始終、これからの環境の変化を嘆いた。結局、母からはおめでとうの言葉もなければ、つわりを気遣う言葉もなかった。喜びの言葉もなかった。
つわりは二ヶ月ほど続いた。ちょうどそれが治まった頃に、塔子の誕生日があった。結婚後、初めての誕生日。つわりが治まって気分が良いのと、結婚後初の自分の誕生日が重なって、塔子の気分は華やいだ。やっぱり、結婚してよかったのかもしれない。去年の誕生日も、その前の誕生日も、仕事から帰って、独りぼっちだった。彼も母も電話をくれたけれど、部屋に一人でいると何故だか孤独を感じた。けれど、今年からは違う。もう、一人じゃないんだ。
だが、いつも帰宅の早い彼は、その日に限って帰って来なかった。まさか、誕生日を忘れているのだろうか? まさかね。きっと、何か用事が出来たのだろう。それとも、何か誕生日の準備をしているのかもしれない。ケーキかな? それともプレゼント? いや、花束かもしれない……。贅沢は出来ないから、それはささやかな物だろう。それでも、その気持ちが嬉しい。忘れずにいてくれた、その気持ちが嬉しいと思うだろう。晩ご飯を作りながら、塔子は何度も携帯を見たが、彼からは何の連絡もなかった。
「ただいま」
いつもより3時間も遅れて、彼は不意に帰って来た。
「あ……おかえり」
「まいったよー。急に仕事の依頼が入っちゃってさ。びっくりしたよ」
「あー……そうなんだぁ」
腹減ったぁ~と言いながら、彼は靴を脱ぎ、部屋の中へと入った。塔子はその後に続いた。彼の背中を見つめながら、彼が手ぶらな事に気付いた。
「……今日って、何の日か、覚えてる?」
椅子に座ってご飯が運ばれてくるのを待っている彼に、塔子は問いかけてみた。彼は不意にニヤニヤと半笑いを浮かべた。
「知ってるよ。塔子の誕生日だろ。おめでとう」
「……うん……。ありがとう」
「じゃ、腹減ったし、飯にしようか」
「……うん……。そうだね……」
泣くまいと思っても、気付けば涙はすでに流れていた。何故、こんな仕打ちを受けなければならないのか。塔子はその場にくず折れ、大声を挙げて泣いた。子宮がキリキリと痛んだ。自分が何故、こんなに悲しいのか、それすらもわからないほど、泣いた。否、自分は悲しんでいるのではない。きっと、情けないのだ。心底、彼という人間を、情けなく思うのだ。彼は私の誕生日を忘れていたわけじゃない。忘れていたわけではないのに、自分からはその話題に触れなかった。私から言われて、彼は逃げられない事を悟り、しぶしぶ祝いの言葉を口にしたのだ。彼は人を喜ばせようとは思わない。それに骨折ったりはしない。あわよくば、その話題が出なければ、逃げ切りたいとさえ思っているのだ。
結婚後、初めての誕生日。何故、こんなに情けない誕生日を迎えなければならないのだろうか。こんな事になるくらいなら、いっそ結婚しない方がよかった。孤独を捨て去るために結婚したのに、今まで以上の孤独を背負わされるはめになるとは! ブルブルと体を震わせて泣いていると、彼の寰宇家庭心配そうな声がした。
「……塔子? 急に、どうしたんだよ……」
「だって……今日は私の……誕生日なんだよ……?」
「あぁ……遅くなってごめん。悪かった。だから、もう泣くな。もう、お前はお母さんなんだから。お腹の子供に笑われるぞ」
見当はずれな彼の言葉が、塔子のお腹に突き刺さった。子供が出来た事、本当は喜んでもいないくせに! まるで他人事のような振る舞いをしたくせに! もう、無理だ。この人とはやっていけない。帰ろう。家に、帰ろう。
塔子はフラフラと立ち上がった。でも、一体、私はどこに帰ればいいの? 一人で暮らしていたマンションは、もちろんもう引き払ってしまっている。母の元には、帰れない。帰りたくても、帰って来るなと言われている。結局、私には行くところがなくなってしまったのだ。もう、自分はどこにも行けないのだ。
子供が出来た事を、塔子はつわりで知った。それは言いようのない不快感だった。朝起きた時から、気分が悪い。日中はもちろん、夜寝ている時も、いつもいつも吐き気がする。そして時には本当に吐いてしまう。検査薬を買って調べてみると、やはり赤ちゃんが出来たようであった。次の寰宇家庭日に病院へ行くと、エコーには2cmほどの小さな影が映った。
病院からの帰り道、塔子は彼に何と言おうか、と思い悩んだ。そして、事実を伝えた後、彼は自分に何と言うのだろうか。彼は子供をそんなに欲しがってはいなかった。いずれは、と思っているようであったが、それは今ではないらしい。なにしろ、彼は友人と二人で会社を辞め、事業を立ち上げたばかりだ。そして、それはまだ軌道に乗ってはいない。無職同然の身なのだ。
しかし、自分は別に何も悪い事をしたわけじゃない。もちろん、お腹の子にもなんら罪はない。むしろ、これは喜ばしい事なのではないか? そう、喜んでいいのだ! 電車に揺られながら、塔子はエコー写真を何度も何度も眺めた。右手は無意識にお腹をさすり続けた。
家に帰ると、彼はすでに帰宅していた。ほとんど仕事のない彼の方が、フルタイムで働く塔子よりも帰宅時間が早い事が多かった。もちろん、彼は何もしない。洗濯物は夜になってもそのまま干されている状態で、炊飯器もバスタブも空っぽの状態だ。カーテンすら、開け閉めをしない。彼はただ寝そべって、テレビを眺めているだけだ。
「ただいま」
「お帰りー」
彼は視線をテレビに向けたまま応えた。塔子はカーテンを閉めながら、いつ話を切り出そうか、と迷った。
「今日の晩ご飯、何?」
「あぁ……晩ご飯。晩御飯ね……。そうだね、どうしようか……」
気が動転していて、スーパーに寄らずに帰って来てしまった事を、塔子は今更ながらに知った。
「あのさ……その前にちょっと話があるんだ」
「何?」
彼はテレビの方を向いたまま、面倒臭そうに言った。
「あのさ……あなた、パパになったんだよ」
「えっ?」
彼は寝転がったままの姿勢で、きょとんとした表情を浮かべた。
「パパになったの! お父さんだよ!」
塔子が笑いながらそう告げると、彼は困ったような顔で、キョロキョロと目を泳がした。
「えっ……それって、子供が出来たって事?」
「そうだよ!」
塔子が声を挙げて笑うと、彼は釣られたのか、口元を歪めた。彼自身は笑っているつもりなのだろうが、それは曖昧に誤魔化しているかのような、半笑いのような表情だった。
「……そうなんだ。……そうなんだ。おめでとう……」
まるで自分は当事者ではないかのような、他人行儀な口調で、彼は何故か祝いの寰宇家庭言葉を述べた。
その翌日、塔子は母に妊娠の報告の電話をした。受話器の向こうで、母は明らかにうろたえていた。
「なにも、初孫じゃあるまいし」
塔子は笑いながら母にそう言った。二年前、すでに弟の子供が生まれている。
「いや……いやね、違うのよ。息子の子供と娘の子供とじゃ、違うじゃない……」
ハァ~~という長い溜め息をつきながら、母はそう呟いた。
「何が違うのよ」
「だって、あなた、仕事はどうするの? それにまさか生みに実家に帰るとか言い出すんじゃないでしょうね」
「……あぁ……大丈夫。仕送りならなんとかするし、別にお母さんの手を煩わせたりしないよ……」
母は始終、これからの環境の変化を嘆いた。結局、母からはおめでとうの言葉もなければ、つわりを気遣う言葉もなかった。喜びの言葉もなかった。
つわりは二ヶ月ほど続いた。ちょうどそれが治まった頃に、塔子の誕生日があった。結婚後、初めての誕生日。つわりが治まって気分が良いのと、結婚後初の自分の誕生日が重なって、塔子の気分は華やいだ。やっぱり、結婚してよかったのかもしれない。去年の誕生日も、その前の誕生日も、仕事から帰って、独りぼっちだった。彼も母も電話をくれたけれど、部屋に一人でいると何故だか孤独を感じた。けれど、今年からは違う。もう、一人じゃないんだ。
だが、いつも帰宅の早い彼は、その日に限って帰って来なかった。まさか、誕生日を忘れているのだろうか? まさかね。きっと、何か用事が出来たのだろう。それとも、何か誕生日の準備をしているのかもしれない。ケーキかな? それともプレゼント? いや、花束かもしれない……。贅沢は出来ないから、それはささやかな物だろう。それでも、その気持ちが嬉しい。忘れずにいてくれた、その気持ちが嬉しいと思うだろう。晩ご飯を作りながら、塔子は何度も携帯を見たが、彼からは何の連絡もなかった。
「ただいま」
いつもより3時間も遅れて、彼は不意に帰って来た。
「あ……おかえり」
「まいったよー。急に仕事の依頼が入っちゃってさ。びっくりしたよ」
「あー……そうなんだぁ」
腹減ったぁ~と言いながら、彼は靴を脱ぎ、部屋の中へと入った。塔子はその後に続いた。彼の背中を見つめながら、彼が手ぶらな事に気付いた。
「……今日って、何の日か、覚えてる?」
椅子に座ってご飯が運ばれてくるのを待っている彼に、塔子は問いかけてみた。彼は不意にニヤニヤと半笑いを浮かべた。
「知ってるよ。塔子の誕生日だろ。おめでとう」
「……うん……。ありがとう」
「じゃ、腹減ったし、飯にしようか」
「……うん……。そうだね……」
泣くまいと思っても、気付けば涙はすでに流れていた。何故、こんな仕打ちを受けなければならないのか。塔子はその場にくず折れ、大声を挙げて泣いた。子宮がキリキリと痛んだ。自分が何故、こんなに悲しいのか、それすらもわからないほど、泣いた。否、自分は悲しんでいるのではない。きっと、情けないのだ。心底、彼という人間を、情けなく思うのだ。彼は私の誕生日を忘れていたわけじゃない。忘れていたわけではないのに、自分からはその話題に触れなかった。私から言われて、彼は逃げられない事を悟り、しぶしぶ祝いの言葉を口にしたのだ。彼は人を喜ばせようとは思わない。それに骨折ったりはしない。あわよくば、その話題が出なければ、逃げ切りたいとさえ思っているのだ。
結婚後、初めての誕生日。何故、こんなに情けない誕生日を迎えなければならないのだろうか。こんな事になるくらいなら、いっそ結婚しない方がよかった。孤独を捨て去るために結婚したのに、今まで以上の孤独を背負わされるはめになるとは! ブルブルと体を震わせて泣いていると、彼の寰宇家庭心配そうな声がした。
「……塔子? 急に、どうしたんだよ……」
「だって……今日は私の……誕生日なんだよ……?」
「あぁ……遅くなってごめん。悪かった。だから、もう泣くな。もう、お前はお母さんなんだから。お腹の子供に笑われるぞ」
見当はずれな彼の言葉が、塔子のお腹に突き刺さった。子供が出来た事、本当は喜んでもいないくせに! まるで他人事のような振る舞いをしたくせに! もう、無理だ。この人とはやっていけない。帰ろう。家に、帰ろう。
塔子はフラフラと立ち上がった。でも、一体、私はどこに帰ればいいの? 一人で暮らしていたマンションは、もちろんもう引き払ってしまっている。母の元には、帰れない。帰りたくても、帰って来るなと言われている。結局、私には行くところがなくなってしまったのだ。もう、自分はどこにも行けないのだ。