2016/10/27
この実家は、人里離れていて、交通の便は、非常に悪く、資産価値もなく、家屋は古く修理維持費がかかり、
いいところは、まるでない。
今は、母がどうにか手間隙かけて維持しているが、入院したり、体が動かなくなったりすると、
どうしようもない。
母は最近「高齢で危ないから運転禁止」と我々に言われて、いやいやながら免許を返上したので、
それまでは自ら車を運転して行っていたが、この家に行く手段を絶たれ、不便極まりない。
誰の得にもならない、誰も喜ばない、なんのプラスにもならない、労力とお金ばかりかかる、
こんな実家に、なぜ、わたしは、愛情を注ぐのか?
しかも、遠方に住むわたしは、すぐに飛んで行って、スピーディな対応や処置ができるわけでもないのに。
自分で運転して、高速道路をぴゅっとぶっ飛ばして行くのならまだしも、
いまだに高速道路の乗り換えがわかっていない、
誰かに運転してもらって、行っている、自分自身がお荷物のような人間である。
(一応は、運転できるんだけど、・・・運転、その他が、ひどい・・・)
いずれ、わたしの希望通りにはいかなくなる日が来るだろう。
いくら愛着があっても、現実的にできることと、できないことがある。
少しずつ、荒れ果て朽ち果てて、草ぼうぼう、廃屋になっていくのを見守るしかないのか。
わたしが出来る間は、出来る範囲内で、維持に協力したいと思っている。
そのためには、若い世代の力も借りたいが、
彼らにとって、なんの価値もないものを、無理やり片棒を担がせるのも、忍びない。
いいところは、まるでない。
今は、母がどうにか手間隙かけて維持しているが、入院したり、体が動かなくなったりすると、
どうしようもない。
母は最近「高齢で危ないから運転禁止」と我々に言われて、いやいやながら免許を返上したので、
それまでは自ら車を運転して行っていたが、この家に行く手段を絶たれ、不便極まりない。
誰の得にもならない、誰も喜ばない、なんのプラスにもならない、労力とお金ばかりかかる、
こんな実家に、なぜ、わたしは、愛情を注ぐのか?
しかも、遠方に住むわたしは、すぐに飛んで行って、スピーディな対応や処置ができるわけでもないのに。
自分で運転して、高速道路をぴゅっとぶっ飛ばして行くのならまだしも、
いまだに高速道路の乗り換えがわかっていない、
誰かに運転してもらって、行っている、自分自身がお荷物のような人間である。
(一応は、運転できるんだけど、・・・運転、その他が、ひどい・・・)
いずれ、わたしの希望通りにはいかなくなる日が来るだろう。
いくら愛着があっても、現実的にできることと、できないことがある。
少しずつ、荒れ果て朽ち果てて、草ぼうぼう、廃屋になっていくのを見守るしかないのか。
わたしが出来る間は、出来る範囲内で、維持に協力したいと思っている。
そのためには、若い世代の力も借りたいが、
彼らにとって、なんの価値もないものを、無理やり片棒を担がせるのも、忍びない。
2016/10/20
ごくごく当たり前のことだけれど・・・
性格のどこかの部分は、わたしと似ているのだが、考え方、感じ方がまったく違う。
違う世代で、違う生活環境なので、違更年期っていて当たり前なのだが。
しばらく離れてみると、ああ、もう、まったく違うなあ・・・と感じた。
日常生活の上で、同じ事柄、役柄をこなすにも、
嫌々ながら渋々やっているのと、楽しくやっているのとでは、ぜんぜん違う。
ご本人の私生活の状況が、満足いかないのであれば、しかたないのかも知れないが。
子どもの習い事や、ファッションは、他人に差をつけるためのものだ、という考えは、わたしには賛同できない。
子どものためを思ってやるか、あるいは、親のエゴを子どもに押し付け振り回すか、どっちかならありえる。
他人の目を気にして競争するなんて、まった寰宇家庭くわたしには、興味がない。
軸足は、自分でなければ、
他人は、自分以外のすべてなのだから、
そんな、やたら大量の不特定多数を相手に競ってみても、敵は次から次から現れ、虚しいだけだ。
自分が子どもの犠牲になるか、子どもが自分の犠牲になるか、はたまた調整、調合して、ハッピーバランスを保つか。
なんで、他人から見た評価のために、振り回されなければいけない?
他人の持つ評価が、自分の考える評価内容と同じであれば、しっかり同じように同じ価値観で振り回されたらよいだろう。
あんまりワケも意味もわからず、ポリシーも信念もなく、
たんに、人がしているから、などということで真似するのは、労多くして、実が少ない。
が、若いうちは、半径1キロ以内の目の前のことしか見えず、無理だろう。
よくわからない場合は、半歩先に行く、理想と思える人の真似をとりあえずしておくと無難か。
間違っても、同時のスタートラインで競争すると、競争に巻き込まれて、お互いが見えなくなるから、やめたほうがいい。
性格のどこかの部分は、わたしと似ているのだが、考え方、感じ方がまったく違う。
違う世代で、違う生活環境なので、違更年期っていて当たり前なのだが。
しばらく離れてみると、ああ、もう、まったく違うなあ・・・と感じた。
日常生活の上で、同じ事柄、役柄をこなすにも、
嫌々ながら渋々やっているのと、楽しくやっているのとでは、ぜんぜん違う。
ご本人の私生活の状況が、満足いかないのであれば、しかたないのかも知れないが。
子どもの習い事や、ファッションは、他人に差をつけるためのものだ、という考えは、わたしには賛同できない。
子どものためを思ってやるか、あるいは、親のエゴを子どもに押し付け振り回すか、どっちかならありえる。
他人の目を気にして競争するなんて、まった寰宇家庭くわたしには、興味がない。
軸足は、自分でなければ、
他人は、自分以外のすべてなのだから、
そんな、やたら大量の不特定多数を相手に競ってみても、敵は次から次から現れ、虚しいだけだ。
自分が子どもの犠牲になるか、子どもが自分の犠牲になるか、はたまた調整、調合して、ハッピーバランスを保つか。
なんで、他人から見た評価のために、振り回されなければいけない?
他人の持つ評価が、自分の考える評価内容と同じであれば、しっかり同じように同じ価値観で振り回されたらよいだろう。
あんまりワケも意味もわからず、ポリシーも信念もなく、
たんに、人がしているから、などということで真似するのは、労多くして、実が少ない。
が、若いうちは、半径1キロ以内の目の前のことしか見えず、無理だろう。
よくわからない場合は、半歩先に行く、理想と思える人の真似をとりあえずしておくと無難か。
間違っても、同時のスタートラインで競争すると、競争に巻き込まれて、お互いが見えなくなるから、やめたほうがいい。