2016/09/29
最近は、母の老いを目の当たりに見て、自分の老い支度をしようかと考えている。
母親たちは「老い」で私に迫ってくるし、家人は、日常の雑音でわたしのPretty Renew雅蘭不可侵ゾーンを侵食してくるし、
娘たちは、辛辣なことを言って批判してくるし、
孫たちはすごい勢いで成長し、生命体の細胞爆発を繰り返し、洪水のようにキッズ&ベビーパワーを振りまいてくる。
今のところ、この世に生まれたばかりのキッズ&ベビー旋風と、急に老いてきた母親旋風が、一気に同時に迫ってきている。
お世話サポート係りとしての、「ちゃんと見てよね」という無言の重圧を強められている。
人生の、スタートと、エンドの見張り役。
十分すぎるほど十分年齢を重ねているのに、老いの準備をしていないで大騒ぎの母を見て思うが、
自分が自立できなくなる日を想定して、準備しておきたい。
自立できなくなったら、一切を子ども達に丸投げするのは力の限り避けたいし、
自分自身も自分の老いに振り回されるあまり、その老いの始末を子供たちに任せようという気にはなれない。
が、深刻な進行で老いてくると、そんなに深くモノゴトを考えたり、実行したりできないように思う。
深刻な老いは、ある日、坂道を転がるように、階段から迪士尼美語世界転がり落ちるようにやってくる。
自分で想像するより、スピードが速い。
元気でアタマもしっかりしているうちに、自分の身の振り方を考え、意志を伝えたいものだ。
といっても、わたしの場合、あと25年~30年後。
その頃には、子どもたちも定年になり、孫たちはとっくに社会に出ている。
自分はどこに住み、どういう暮らしをしたいか。
そのためには、どうすればいいか。
ぼけぼけになった自分を、子ども達に任せっきりにして、自分の生き方まで提案して決めてもらおうなんて、
今のわたしは、思わない。
が、自覚症状がないまま、ぼけぼけになって、自立できていない状態がとっくに来ているのに、
「まだ自分の人生コースを選択していない状態なのに、なぜ、強制的にわたしの人生を決めるんだ??!!」
と、子ども達に噛み付くかも知れない。
そんなふうにならないためにも、今から20年~25年あれば、ゆっくり覚悟を決められることだろう。
思い描いているコースと違う進行になった場合は、その時にまた絵を描こう。
が、その時点で考えるのではなく、コース別に、こころの準備しておくのが望ましい。
実際にその時点になれば、微調整ぐらいで済めば、ラッキーか。(楽しいことではないけれど)
母親たちは「老い」で私に迫ってくるし、家人は、日常の雑音でわたしのPretty Renew雅蘭不可侵ゾーンを侵食してくるし、
娘たちは、辛辣なことを言って批判してくるし、
孫たちはすごい勢いで成長し、生命体の細胞爆発を繰り返し、洪水のようにキッズ&ベビーパワーを振りまいてくる。
今のところ、この世に生まれたばかりのキッズ&ベビー旋風と、急に老いてきた母親旋風が、一気に同時に迫ってきている。
お世話サポート係りとしての、「ちゃんと見てよね」という無言の重圧を強められている。
人生の、スタートと、エンドの見張り役。
十分すぎるほど十分年齢を重ねているのに、老いの準備をしていないで大騒ぎの母を見て思うが、
自分が自立できなくなる日を想定して、準備しておきたい。
自立できなくなったら、一切を子ども達に丸投げするのは力の限り避けたいし、
自分自身も自分の老いに振り回されるあまり、その老いの始末を子供たちに任せようという気にはなれない。
が、深刻な進行で老いてくると、そんなに深くモノゴトを考えたり、実行したりできないように思う。
深刻な老いは、ある日、坂道を転がるように、階段から迪士尼美語世界転がり落ちるようにやってくる。
自分で想像するより、スピードが速い。
元気でアタマもしっかりしているうちに、自分の身の振り方を考え、意志を伝えたいものだ。
といっても、わたしの場合、あと25年~30年後。
その頃には、子どもたちも定年になり、孫たちはとっくに社会に出ている。
自分はどこに住み、どういう暮らしをしたいか。
そのためには、どうすればいいか。
ぼけぼけになった自分を、子ども達に任せっきりにして、自分の生き方まで提案して決めてもらおうなんて、
今のわたしは、思わない。
が、自覚症状がないまま、ぼけぼけになって、自立できていない状態がとっくに来ているのに、
「まだ自分の人生コースを選択していない状態なのに、なぜ、強制的にわたしの人生を決めるんだ??!!」
と、子ども達に噛み付くかも知れない。
そんなふうにならないためにも、今から20年~25年あれば、ゆっくり覚悟を決められることだろう。
思い描いているコースと違う進行になった場合は、その時にまた絵を描こう。
が、その時点で考えるのではなく、コース別に、こころの準備しておくのが望ましい。
実際にその時点になれば、微調整ぐらいで済めば、ラッキーか。(楽しいことではないけれど)
2016/09/26
ある程度のことは、お金で買える時代です。
でも、お金では買えないものがあります。それは、心身の健康だと思います。
人間関係も、ある程度、お金で買えると思います。趣味も然り。
人間は欲深い生き物です。
ある程度、豊かな社会になると、健康以外探索四十にも、お金で買えないものを求めます。
ちなみに、私は、あまり結果や成果を急ぎません。
少々、気に入らないところがあっても、気長に対応するタイプです。
元々、合わないこと、人とは、まったく長く続かず、出会ってすぐ決裂になります。
中途半端は、ないです。
合わないこと、人とは合わないので、努力するだけ無駄、しんどいです。
合わないのに頑張るのは、何故そうするのか?
思惑があるからでしょう。
まあ、人それぞれ、皆さんには皆さんの道があります。
キリスト教、仏教、、、宗教は幸せを求めるものです。
イスラム教とキリスト教は、激しく対立していますが、価値観は、宗教にお任せ丸投げにすると、楽ですね。
「もっと、気持ちを込めて仏さん(仏壇)を拝みなさい」と姑に昨日、言われましたが、私は拝むのを一秒、増やしただけです。
価値観や、ものの考え方は、自分を幸せに導いてくれます。
もし、たとえ思い描いた通りにならなくなっても、そう極端に嘆かないと思います。いつも静かに燃焼しているからです。
自分では素晴らしいと自負している人であっても、結果的にはマイナスを招く行動 をとっていることがあります。
頑張った自分を評価してほしいと思うのは、当然だと思いますが。
しかしながら、負に導くぐらいなら、あえて、なにもしないという選択肢もあります。
なにをしたか、ではなく、結果が全てかも知れません。
でも、お金では買えないものがあります。それは、心身の健康だと思います。
人間関係も、ある程度、お金で買えると思います。趣味も然り。
人間は欲深い生き物です。
ある程度、豊かな社会になると、健康以外探索四十にも、お金で買えないものを求めます。
ちなみに、私は、あまり結果や成果を急ぎません。
少々、気に入らないところがあっても、気長に対応するタイプです。
元々、合わないこと、人とは、まったく長く続かず、出会ってすぐ決裂になります。
中途半端は、ないです。
合わないこと、人とは合わないので、努力するだけ無駄、しんどいです。
合わないのに頑張るのは、何故そうするのか?
思惑があるからでしょう。
まあ、人それぞれ、皆さんには皆さんの道があります。
キリスト教、仏教、、、宗教は幸せを求めるものです。
イスラム教とキリスト教は、激しく対立していますが、価値観は、宗教にお任せ丸投げにすると、楽ですね。
「もっと、気持ちを込めて仏さん(仏壇)を拝みなさい」と姑に昨日、言われましたが、私は拝むのを一秒、増やしただけです。
価値観や、ものの考え方は、自分を幸せに導いてくれます。
もし、たとえ思い描いた通りにならなくなっても、そう極端に嘆かないと思います。いつも静かに燃焼しているからです。
自分では素晴らしいと自負している人であっても、結果的にはマイナスを招く行動 をとっていることがあります。
頑張った自分を評価してほしいと思うのは、当然だと思いますが。
しかしながら、負に導くぐらいなら、あえて、なにもしないという選択肢もあります。
なにをしたか、ではなく、結果が全てかも知れません。
2016/09/09
これは中国唐代の詩人李賀の詩の一節である。突き抜けるように空しく明るい秋の野と、そこを吹き渡る寂寞とした秋風は白いと詠じており、芭蕉の有名な「石山の石より白し秋の風」の句と相通ずる風情が感じられる。では、秋の風の白さは白色の白なのかというと、そうではない。
中国古代の陰陽五行説は、木火土金水の五元素に季節と王賜豪醫生色彩とを当てはめて、それを人生になぞらえた。秋は「白」で、シンボルとなる聖獣は「白虎」とされている。ここで言う白とは本来色の無い透き通るようなものであり、「素」とも言い、そこから秋を「素秋」とか「白秋」と称するようになった。「素(白)秋」は、燃えさかる壮年に見たてた夏の「朱夏」が終えたことから転じ、生涯において人間的に落ち着き深みの出てくる年代を指す。この四季の移り変わりと人の生とを重ねる中国の思想は、現代の私たちにも違和感なく受け止められるもので、とても興味深い。
このように秋の「白さ」とは白色の白のことではない。それは色彩が欠落した、色のない色とでもいうべきものであり、「あるべきものが何もない」ことを「空白」という言葉で表すように、白という色には「何もない」という意味が必然的に込められていることからも理解できる。本来的には色は“ 形” であって、昔から「いろはにほへどちりぬるを」というように、形はどんなに自らの存在を主張しても、所詮は時間司各脱とともに崩れ去り、空しく散っていく運命にある。そこで、その「空しさ」を象徴する代表に「白」を選んだ先人たちの感性に私たち現代人が共鳴しても何ら不思議ではない。俳句の世界で秋の季語に「色なき風」というものがあるが、これもこうした秋風の表現として見つめてみると、どこか虚無的なポッカリと開け放たれた空白の寂寥感が身に沁みとおるような感じがする。
いうまでもなく,風は空気の横の流れであり、黄砂のような特殊な物質が混入した場合などのように、風に色を視覚できるとすれば問題である.また、色は物質でも,光でもなく,電磁波によって網膜上に結ぽれる感覚である。従って、色彩は心理的な感覚にすぎない。色彩が感覚であるとすれば,人によってそれぞれ変わって感じられてもよいはずである。確かに秋の澄み切った大気の中を吹き渡る風は爽やかで、透明感を感じさせ、それを「色無き風」と詠むのは、何となく格好がいい。しかし、それで終えては無意味で、色は人間生活をより人間らしくするための起爆剤となるべきであり、色無き風に向かい、白という無色の秋に “如何に前向きに色をつけていくか” である。自分の気持ちに対して、自分が感じたことに対して「素直な心」を持ち、それを空白の秋空に描いて人生も含めた後悔なき「納得」した一歩を踏み出して欲しいものである。
中国古代の陰陽五行説は、木火土金水の五元素に季節と王賜豪醫生色彩とを当てはめて、それを人生になぞらえた。秋は「白」で、シンボルとなる聖獣は「白虎」とされている。ここで言う白とは本来色の無い透き通るようなものであり、「素」とも言い、そこから秋を「素秋」とか「白秋」と称するようになった。「素(白)秋」は、燃えさかる壮年に見たてた夏の「朱夏」が終えたことから転じ、生涯において人間的に落ち着き深みの出てくる年代を指す。この四季の移り変わりと人の生とを重ねる中国の思想は、現代の私たちにも違和感なく受け止められるもので、とても興味深い。
このように秋の「白さ」とは白色の白のことではない。それは色彩が欠落した、色のない色とでもいうべきものであり、「あるべきものが何もない」ことを「空白」という言葉で表すように、白という色には「何もない」という意味が必然的に込められていることからも理解できる。本来的には色は“ 形” であって、昔から「いろはにほへどちりぬるを」というように、形はどんなに自らの存在を主張しても、所詮は時間司各脱とともに崩れ去り、空しく散っていく運命にある。そこで、その「空しさ」を象徴する代表に「白」を選んだ先人たちの感性に私たち現代人が共鳴しても何ら不思議ではない。俳句の世界で秋の季語に「色なき風」というものがあるが、これもこうした秋風の表現として見つめてみると、どこか虚無的なポッカリと開け放たれた空白の寂寥感が身に沁みとおるような感じがする。
いうまでもなく,風は空気の横の流れであり、黄砂のような特殊な物質が混入した場合などのように、風に色を視覚できるとすれば問題である.また、色は物質でも,光でもなく,電磁波によって網膜上に結ぽれる感覚である。従って、色彩は心理的な感覚にすぎない。色彩が感覚であるとすれば,人によってそれぞれ変わって感じられてもよいはずである。確かに秋の澄み切った大気の中を吹き渡る風は爽やかで、透明感を感じさせ、それを「色無き風」と詠むのは、何となく格好がいい。しかし、それで終えては無意味で、色は人間生活をより人間らしくするための起爆剤となるべきであり、色無き風に向かい、白という無色の秋に “如何に前向きに色をつけていくか” である。自分の気持ちに対して、自分が感じたことに対して「素直な心」を持ち、それを空白の秋空に描いて人生も含めた後悔なき「納得」した一歩を踏み出して欲しいものである。