秋風白し
2016/09/09
これは中国唐代の詩人李賀の詩の一節である。突き抜けるように空しく明るい秋の野と、そこを吹き渡る寂寞とした秋風は白いと詠じており、芭蕉の有名な「石山の石より白し秋の風」の句と相通ずる風情が感じられる。では、秋の風の白さは白色の白なのかというと、そうではない。
中国古代の陰陽五行説は、木火土金水の五元素に季節と王賜豪醫生色彩とを当てはめて、それを人生になぞらえた。秋は「白」で、シンボルとなる聖獣は「白虎」とされている。ここで言う白とは本来色の無い透き通るようなものであり、「素」とも言い、そこから秋を「素秋」とか「白秋」と称するようになった。「素(白)秋」は、燃えさかる壮年に見たてた夏の「朱夏」が終えたことから転じ、生涯において人間的に落ち着き深みの出てくる年代を指す。この四季の移り変わりと人の生とを重ねる中国の思想は、現代の私たちにも違和感なく受け止められるもので、とても興味深い。
このように秋の「白さ」とは白色の白のことではない。それは色彩が欠落した、色のない色とでもいうべきものであり、「あるべきものが何もない」ことを「空白」という言葉で表すように、白という色には「何もない」という意味が必然的に込められていることからも理解できる。本来的には色は“ 形” であって、昔から「いろはにほへどちりぬるを」というように、形はどんなに自らの存在を主張しても、所詮は時間司各脱とともに崩れ去り、空しく散っていく運命にある。そこで、その「空しさ」を象徴する代表に「白」を選んだ先人たちの感性に私たち現代人が共鳴しても何ら不思議ではない。俳句の世界で秋の季語に「色なき風」というものがあるが、これもこうした秋風の表現として見つめてみると、どこか虚無的なポッカリと開け放たれた空白の寂寥感が身に沁みとおるような感じがする。
いうまでもなく,風は空気の横の流れであり、黄砂のような特殊な物質が混入した場合などのように、風に色を視覚できるとすれば問題である.また、色は物質でも,光でもなく,電磁波によって網膜上に結ぽれる感覚である。従って、色彩は心理的な感覚にすぎない。色彩が感覚であるとすれば,人によってそれぞれ変わって感じられてもよいはずである。確かに秋の澄み切った大気の中を吹き渡る風は爽やかで、透明感を感じさせ、それを「色無き風」と詠むのは、何となく格好がいい。しかし、それで終えては無意味で、色は人間生活をより人間らしくするための起爆剤となるべきであり、色無き風に向かい、白という無色の秋に “如何に前向きに色をつけていくか” である。自分の気持ちに対して、自分が感じたことに対して「素直な心」を持ち、それを空白の秋空に描いて人生も含めた後悔なき「納得」した一歩を踏み出して欲しいものである。
中国古代の陰陽五行説は、木火土金水の五元素に季節と王賜豪醫生色彩とを当てはめて、それを人生になぞらえた。秋は「白」で、シンボルとなる聖獣は「白虎」とされている。ここで言う白とは本来色の無い透き通るようなものであり、「素」とも言い、そこから秋を「素秋」とか「白秋」と称するようになった。「素(白)秋」は、燃えさかる壮年に見たてた夏の「朱夏」が終えたことから転じ、生涯において人間的に落ち着き深みの出てくる年代を指す。この四季の移り変わりと人の生とを重ねる中国の思想は、現代の私たちにも違和感なく受け止められるもので、とても興味深い。
このように秋の「白さ」とは白色の白のことではない。それは色彩が欠落した、色のない色とでもいうべきものであり、「あるべきものが何もない」ことを「空白」という言葉で表すように、白という色には「何もない」という意味が必然的に込められていることからも理解できる。本来的には色は“ 形” であって、昔から「いろはにほへどちりぬるを」というように、形はどんなに自らの存在を主張しても、所詮は時間司各脱とともに崩れ去り、空しく散っていく運命にある。そこで、その「空しさ」を象徴する代表に「白」を選んだ先人たちの感性に私たち現代人が共鳴しても何ら不思議ではない。俳句の世界で秋の季語に「色なき風」というものがあるが、これもこうした秋風の表現として見つめてみると、どこか虚無的なポッカリと開け放たれた空白の寂寥感が身に沁みとおるような感じがする。
いうまでもなく,風は空気の横の流れであり、黄砂のような特殊な物質が混入した場合などのように、風に色を視覚できるとすれば問題である.また、色は物質でも,光でもなく,電磁波によって網膜上に結ぽれる感覚である。従って、色彩は心理的な感覚にすぎない。色彩が感覚であるとすれば,人によってそれぞれ変わって感じられてもよいはずである。確かに秋の澄み切った大気の中を吹き渡る風は爽やかで、透明感を感じさせ、それを「色無き風」と詠むのは、何となく格好がいい。しかし、それで終えては無意味で、色は人間生活をより人間らしくするための起爆剤となるべきであり、色無き風に向かい、白という無色の秋に “如何に前向きに色をつけていくか” である。自分の気持ちに対して、自分が感じたことに対して「素直な心」を持ち、それを空白の秋空に描いて人生も含めた後悔なき「納得」した一歩を踏み出して欲しいものである。