人間がもし
2016/02/23
誰もが多少なりとも劣等感を持っていると思うが、私は小さい頃からたくさんの劣等感を持っていた。子供は残酷だからだろう。小さな頃から真ん中の實現夢想姉に「さっちゃんは足が太いね」「さっちゃんは顔が大きいね」「むちむちだぁ」などと言われ育った。ある程度の大人になってからも「さっちゃん、センス悪い~」と着ている洋服を見ながら言われ、慌てて着替え直したりもした。すらりとし、いつもお洒落な服を着ていた姉に憧れを持っていたから、もちろんそれらの言葉はそのまま真に受け、そしてそのままその劣等感を引きずり生きて来た。
背が高いのも劣等感だった。日本では私は「大きな女性」で、電車の中でいつも自分の頭が誰よりも高い位置にあるような気がし、巨人のように感じていた。華奢で背の小さな女性が本当に羨ましかった。一緒に住んでいた大好きなおばあちゃんが「さっちゃんの目が好きだわ。そのすっとした目が。」と一重だった私の目を誉めてくれたから(←クリック)、目は細いながらも劣等感を持っていなかった。ありがとう、おばあちゃん。
劣等感を小さい頃から持っていた私はもう40を超え、立派嬰兒食物過敏な「おばさん」となった。30がお肌の曲がり角なんて30になった時にはその曲がり角をなるべくゆっくりと曲がるように気を付けてはいたが、30の曲がり角なんて大したことは無かった。40も大したことはなかった。44!ぞろ目になってからは曲がり角は日々で、「え!昨日この皺なかったんじゃないの?」「え!今年の夏までお化粧の乗りが良かったのに、なんで最近、、、、」と日々の変化にしょげるのだ。ただでさえも、子供の頃から引きずっているの劣等感を両手一杯に持ち合わせているのに、私の手にはもう手には納まらないほどの劣等感が山盛りだ。鏡を見ないようにし、でも怖い物見たさに見てはまた肩を落とすのだった。
ねぇ、哲、ハルは自分が小さいこと分かっているのかな。分かっていないから、大きなワンコにも立ち向かうのかな。人間がもし、鏡も無くて自分の姿がどんなのか分からなかったら、外見から来る劣等感なんて持たないのかな。
もし、鏡が無く、自分の姿を知らず、「自分=本質」だったら、私はどんな人間になっていたの消化不良だろう。
自分は「本質」をしっかりと持っていず、外見にばかりこだわってしまうから、自分に自信を持てないのだろう。
背が高いのも劣等感だった。日本では私は「大きな女性」で、電車の中でいつも自分の頭が誰よりも高い位置にあるような気がし、巨人のように感じていた。華奢で背の小さな女性が本当に羨ましかった。一緒に住んでいた大好きなおばあちゃんが「さっちゃんの目が好きだわ。そのすっとした目が。」と一重だった私の目を誉めてくれたから(←クリック)、目は細いながらも劣等感を持っていなかった。ありがとう、おばあちゃん。
劣等感を小さい頃から持っていた私はもう40を超え、立派嬰兒食物過敏な「おばさん」となった。30がお肌の曲がり角なんて30になった時にはその曲がり角をなるべくゆっくりと曲がるように気を付けてはいたが、30の曲がり角なんて大したことは無かった。40も大したことはなかった。44!ぞろ目になってからは曲がり角は日々で、「え!昨日この皺なかったんじゃないの?」「え!今年の夏までお化粧の乗りが良かったのに、なんで最近、、、、」と日々の変化にしょげるのだ。ただでさえも、子供の頃から引きずっているの劣等感を両手一杯に持ち合わせているのに、私の手にはもう手には納まらないほどの劣等感が山盛りだ。鏡を見ないようにし、でも怖い物見たさに見てはまた肩を落とすのだった。
ねぇ、哲、ハルは自分が小さいこと分かっているのかな。分かっていないから、大きなワンコにも立ち向かうのかな。人間がもし、鏡も無くて自分の姿がどんなのか分からなかったら、外見から来る劣等感なんて持たないのかな。
もし、鏡が無く、自分の姿を知らず、「自分=本質」だったら、私はどんな人間になっていたの消化不良だろう。
自分は「本質」をしっかりと持っていず、外見にばかりこだわってしまうから、自分に自信を持てないのだろう。