美術音楽文学
2016/07/06
昨日まで、ドライバーの仕事が忙しかった。その割にはブログは更新している。今日から、少し暇になった。
新しい社会的な仕事が軌道に乗ってきたせいなのだろう、なんとなく脳内が初心に帰るとか原点に戻るみたいな感じになっている。そもそも、私がフランスに来た理由が「芸術」を志す、ずばり、これだったから、再度、「芸術」のことを考える。
この記事のタイトル。美術は美の次に「術」。文学は「学」。はっははははぁー、音楽だけ「楽」なのだよねぇー! と、一人で喜んでいる場合ではないわけでもない。
ところで、最近の記事、なんかくどいし当たり前のことを書いているし、老いの繰言、釈迦に説法的になっていることは自分でも分かっているのだけれど、なんかね、自分に言い聞かせている感じなわけね。お付き合い頂いている方々へは、大きくIsao YUと前面に書かれたTシャツを進呈致そう。いらない? うなもの?
先日、芸術は美術音楽文学だけじゃねぇーぞとか書いている。その通りである。まあ、こう
いったものの方が、若干、悟りを開き易いのかも知れない。社会的な要素がないからである。一人で木漏れ日を浴びながら篭れるという駄洒落も成立するからである。でも、しつこいけれど、たとえば、究極のコーヒーを淹れる。ラーメン、盆栽・・・、とにかく至高とか究極とか極北とか、こういったものが脳内で蠢く行為はすべて芸術に繋がっている。だから、究極のブログを目指せば、そうなる。
世間一般の誤解がある。絵とかミュージックとか小説=芸術にはならない。芸能になるケースも多い。芸能は、それはそれですばらしいものである。どちらが上とかではなくて、芸術とは違うものである。芸能は作り手と受け手が、なにかを共有しているからである。たとえば、私は元現代美術家であるけれど、こういうことをやっている人々の多くは、自己中自信過剰自己顕示欲の塊メガロマニア俺は天才だっ! たぶん、名声欲、嫉妬の塊でもある。私自身がそうだったから断言できる。間もなく五十七歳の私の「現在の定義」と真逆であるのだ。これはすご
いっ! 「現在の定義」は先日書いた。「そういった諸々からの解放」である。そう、マリリンだって諸々ある。意味不明。
絵が絵画へ。それが美術へ、そして美学へ。そして、もっと遥か彼方へ。小説も同じである。なかなか文学に昇華しない。文学へ昇華し、さらにもっと彼方へ。深沢七郎のHKUE ENG世界は、民話神話に肉薄している世界でも稀な例であると以前書いた。そういうことなのだ。金子光晴も吉岡実も石垣りんさんもそうである。私が美術の世界、小説の世界で芸術家認定している人は非常に少ない。ただし、これはあくまで私の見解である。いいのだそれで。
新しい社会的な仕事が軌道に乗ってきたせいなのだろう、なんとなく脳内が初心に帰るとか原点に戻るみたいな感じになっている。そもそも、私がフランスに来た理由が「芸術」を志す、ずばり、これだったから、再度、「芸術」のことを考える。
この記事のタイトル。美術は美の次に「術」。文学は「学」。はっははははぁー、音楽だけ「楽」なのだよねぇー! と、一人で喜んでいる場合ではないわけでもない。
ところで、最近の記事、なんかくどいし当たり前のことを書いているし、老いの繰言、釈迦に説法的になっていることは自分でも分かっているのだけれど、なんかね、自分に言い聞かせている感じなわけね。お付き合い頂いている方々へは、大きくIsao YUと前面に書かれたTシャツを進呈致そう。いらない? うなもの?
先日、芸術は美術音楽文学だけじゃねぇーぞとか書いている。その通りである。まあ、こう
いったものの方が、若干、悟りを開き易いのかも知れない。社会的な要素がないからである。一人で木漏れ日を浴びながら篭れるという駄洒落も成立するからである。でも、しつこいけれど、たとえば、究極のコーヒーを淹れる。ラーメン、盆栽・・・、とにかく至高とか究極とか極北とか、こういったものが脳内で蠢く行為はすべて芸術に繋がっている。だから、究極のブログを目指せば、そうなる。
世間一般の誤解がある。絵とかミュージックとか小説=芸術にはならない。芸能になるケースも多い。芸能は、それはそれですばらしいものである。どちらが上とかではなくて、芸術とは違うものである。芸能は作り手と受け手が、なにかを共有しているからである。たとえば、私は元現代美術家であるけれど、こういうことをやっている人々の多くは、自己中自信過剰自己顕示欲の塊メガロマニア俺は天才だっ! たぶん、名声欲、嫉妬の塊でもある。私自身がそうだったから断言できる。間もなく五十七歳の私の「現在の定義」と真逆であるのだ。これはすご
いっ! 「現在の定義」は先日書いた。「そういった諸々からの解放」である。そう、マリリンだって諸々ある。意味不明。
絵が絵画へ。それが美術へ、そして美学へ。そして、もっと遥か彼方へ。小説も同じである。なかなか文学に昇華しない。文学へ昇華し、さらにもっと彼方へ。深沢七郎のHKUE ENG世界は、民話神話に肉薄している世界でも稀な例であると以前書いた。そういうことなのだ。金子光晴も吉岡実も石垣りんさんもそうである。私が美術の世界、小説の世界で芸術家認定している人は非常に少ない。ただし、これはあくまで私の見解である。いいのだそれで。